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協議上の離婚と裁判上の離婚1

離婚には協議による離婚と裁判による離婚の二つがあります。前者は、夫婦が協議して、離婚することをきめ、雛蛎陥を出すことによって効力が発生します。
離婚届には、蠕姻届のばあいと同様、成人二人の証人による署名捺印を必要とし、子があるときは糊権者をどちらにするかを明記しなければなりません。
ここを読んだら、出会う相手と上手に駆け引きができますね。
条件がととのっていなければ、届は受理されませんが、たとえまちがってでもいったん受理されると、離婚は効力をもつことになっているので注意する必要があります。
有効となった離婚でも、詐欺や強迫によってなされたものは、裁判所に取消しを請求できることになっています。
協議上の離婚をしたぱあいの財産分与請求については次節で述べます。
協議がととのわないばあいでも、夫婦の一方に家族法に定められた離婚脈因があるときは、他方は裁判所に離婚の訴えを提起することができ、このばあいの離婚を批判上の離婚といいます。
裁判上の離婚原因には、つぎの五つがあげられています。
1.不貞
2.悪意の遺
3.三年以上生死不
4.回復の見込みのない強度の精神病
5.その他婚姻継続を困難にする重大な理由
誤解のないようにことわっておきたいことは、あげられている5つは、離婚訴訟を起こすことができる条件であって、けっして夫婦の一方がそれらのどれかにがい当したからといって、それを理由に離婚しなければならない、というわけではないことです。
とくに、2、3、4、5の項目はとにかく、1の不貞は、かならずしも結婚生活を破壊するものとはかぎらないものである以上、ひとり合点で不貞ときめつけ、結婚の本質を忘れて、性急にそれを破壊しようとするのは、あまりに軽率であるといわなければなりません。

出典:安心出来る 出会系

離婚の自由について

夫または妻が導他の女性または男性を愛したからといって、その愛が夫婦愛とは異質のものであることは、右に述べたところからも明らかです。
夫婦を結びつける夫婦愛があるかぎり、夫婦愛と異質の愛がそれを崩壊させることはできないは蛍です。
そして、その二つのものが併存しえないと考えるのもまちがいである、と知らなければなりません。
夫に愛人ができたからといって、夫も妻も、そのために夫婦愛が失われたのだと考えるのはまちがいなのです。妻に愛人ができたばあいも同様です。
そうしたぱあい、結婚を破壊するのは、夫婦愛が失われることによってではなく、それが失われなければならないはずだとする考え方であるにすぎません。
夫婦愛よりも、いわゆる愛情を、結婚におけるより重要な要素であるとする考え方が、失われてもいない夫婦愛を捨て去らせることになるのです。
結婚後の生活で問題が発生し、解決しようとすると、また別の問題が出てくるかもしれませんが、相性ピッタリの結婚相手を見つければそんな心配は少しで済むでしょう。
夫または妻に愛人ができたという理由で離婚する夫婦のほとんどが、夫婦ともにこのあやまった考え方に支配されていることは明らかです。
離婚による結婚の破壊をさけるために、夫婦愛よりもいわゆる愛情を重視する夫婦は、いつか、より強い新しい愛情の出現によって、その仕返しを受けることになる可能性をはらんでいる、といわなければなりません。
そうした、いかなる愛情があらわれようと、夫師愛というより強い結びつきがあり、またその存在について正しい認識をもつかぎり、結婚は健全であるとおもってさしつかえありません。

参考:

離婚の原因の多くは愛情の問題

結婚が家族制度である以上、それがあたかも結婚する二人だけの問題であるかのように、結婚も離婚も自由であるべきだなどと考えることがあやまりであるのと同じく、明らかに離婚したほうが幸福であると考えている夫婦でも、裁判によらなければ離婚ができないとすれば、それは家族制度による人間の束縛を復活するあやまりをおかすことになってしまいます。
協議離婚が、真に協議のうえでなされるかぎり、この制度は現代の結婚にふさわしいものと考えてよいでしょう。
裁判離婚の制度もあるわけですから、もし協議がととのわなければ、いつでもこの制度を利用できるよう、すべてのひとがそれについて知ってさえいれば、協議離婚の欠陥は十分補われるはずなのです。
もし、裁判離婚の制度を知らず、協議離婚制悪用の犠牲になるとしたら、それは無知による犠牲でしかなく、結婚というものについて軽率な考えをもっていた結果であるというほかないことになります。
その意味でも、離婚に関する知識は、たんに離婚のときのためだけでなく、堅実な結婚のためにもぜひ必要なものであるといえましょう。
それは、結婚するものが、結婚について真剣に考える以上、どうしても知っておかなければならない結婚にともなういろいろな要素のひとつをなしているからです。
たとえば、離婚の自由をとなえる主張の根拠として、愛情の問題があげられることがあります。
また、離婚の原因のかなりのものが、この愛情の問題に関係があるじじつも無視できません。つまり、これは、夫婦愛に関係してくるのです。
夫婦は愛情によって結ばれるものでなければならない、という説があることについてまえにも述べましたが、この説が、愛情を失った夫婦は別れるのが正しいと考えていることをおもい出していただきたい。
素敵な結婚相手を見つけても結婚後に問題は発生した場合、ここに書いてあるように意外と改善に手間がかかります。気を付けましょう。
われわれは、すでに、夫婦愛とは愛傭というよりは知性による和互理解によって芽生えるもの、であることをみてきました。
それは、愛情があるから夫であり妻であるのではなく、夫であり妻であることによってはぐくまれる性質のものであったわけです。
夫であり妻であるかぎり、夫婦愛は失われるのではなく強化されるべきものなのです。

参考:

離婚について

結婚する以上、はじめから離婿のことを考えるひとは、おそらくほとんどいないにちがいありません。
全くいないわけでないことは、手段として結婚するひとのなかに、離婚による慰謝料や財産分与をめあてにするひとがいることからもわかりますが、まず、ふつうは、結婚するときに離婚を予想することはないといってよいでしょう。
ところが、結婚について論ずるときに、かならず離婚についてふれ、離婚は自山であるべきだ、と主張する学者もいるのです。いったい、この離婚の自由とはどういうことなのでしょうか。
じつは、離婚の自由をうたう考え方には、それなりの理由がある、ということができます。
とくにヨーロッパでのキリスト教による結婚観、つまり、夫婦は神が結び合わせたものであるから、結婚したものは永久に別れてはならない、という思想が、結婚の現実を無視し、不幸な結婚に夫婦をしばりつける原因となってきたことに対する、反動としてあらわれたのが、離婚自由説であった、と考えられるからです。
まえにもふれたように、イギリスでのように、いまでも離婚がかなりきびしく制限されており、別居生活をつづけている事実上のやもめが大勢いるところでは、この離婚自由論も、それなりの意義をもっているといえましょう。
しかし、すでに旧民法のときから、当事者の合意さえあれば自由に離婚できる協議離婚制をもっていた日本では、離婚の自由をとなえることは、むしろこっけいの域をでないものというべきでしょう。
今日、日本で考えられなければならないのは、逆に、無責任な離婚をへらすような方法である、といえるほどなのですから。
協議離婚制は、新民法にもそのままうけつがれ、かつてと同じように、女性側に不利な結果をもたらしている、といわれています。
つまり、協議離婚の大部分が、慰謝料や財産分与の面で、女性に不利なかたちでおこなわれているだけでなく、夫が自由に妻を離婚できる制度とかわりがない、ともいえる面をもっているからです。
もちろん、妻がみな、家庭裁判所を利用すれば、協議離婚制は有名無実になるはずで、そのかぎりにおいて、協議離婚制は夫に離婚の自山を与えるものといえなくなることはじじつであるといえましょう。
これを読んでいれば、出会った人はあなたから離れられないかも。
さいきん、欧米先進国のほとんどにこの制度がないことを理由に、日本においても離婚はこれら先進国なみに裁判離婚にかぎったらどうか、といった意見がだされています。
こうした意見が、さきの離婿自山説と全く正反対の立場に立つものであることはいうまでもありませんが、自由説といい、制限説といい、いずれも一面的な考え方でしかない点では、大同小異といえましょう。

出典元:結婚相談所 選び方

結婚外性関係

結婚外の性関係の詳細については、別の本(『姦通のモラル』)に書いているので、ここでは、たんに、この問題についての要点をあげるにとどめたいとおもいます。
性のメカニズムのもつ自由の原則が、性を結婚の枠内にのみ制限するものでないことは、これまでにくりかえし述べてきたとおりです。
性が結婚外において重要な要素として存在するものに恋愛があることは、いうまでもありません。
そして、恋愛が本質的に結婚と異なるものであるかぎり、恋愛と結婚が併存することも、けっしてありえないことではないといえましょう。
そのばあい、結婚外性関係は当然のこととして認められなければなりますまい。
恋愛以外の結婚外性関係も、また、自由な性のメカニズムからいって否定できないことはいうまでもありません。
会話の中からその人の性格や望みなどを見つけられれば、出会った人は自分にとってどんな人なのか、わかりそうですね。
現代の結婚の本質は、夫婦はそれぞれ、夫であり妻であると同時に、一個の自由な人格であり、したがって、夫婦であるからといって互いに相手を所有物視したり独占したりすることは許されない、ということでした。
このような現代の結婚の本質を認めるかぎり、独占物でない自由な人粕のいかなる行為も、他の何ものかによって制約されることはありえないといわなければなりません。
まして、現代の結婚は、夫婦の性関係のみによって成り立つものであるどころか、性関係は結婚の一要素でしかないことをおもえば、自由な性のメカニズムにもとづく結婚外性関係が、何ら結婚と矛盾するものでないことが明らかとなるでしょう。
なお、念のためにつけ加えたいことは、結婚外性関係が、生殖と分離した性のメカニズムにもとづくものであることを忘れてはならない、ということです。

参考: